日々の出来事や思うことを徒然と……
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あまりブログには仕事のことは書かないようにしているのだが、今回は大きな問題になっているので「はだしのゲン」問題について少し……

この問題で「はだしのゲン」の作品の内容に触れて「こーすべきだ」「それはちがう」「歴史的事実では……」「偏っている」等という議論が見る機会が多いが、それは図書館的にはあまり意味のない議論であるだろう。
今回は「図書館」のあるべき姿という視点でこの問題を集約すると「圧力に屈して、図書館の方針とは違う利用制限を行った」という点、この一点に尽きるのだ。

図書館と言うのは民主主義の基本となる「国民の知る自由」を保障する機関である。
だから、いろんな資料をそろえる。右もあれば左もある。原発推進もあれば原発反対もある。自由主義もあれば共産主義もある。とにかく何でもそろえるのだ。
時として「図書館にある資料に書かれているから正しい」「図書館には正しいことが書かれた本がそろっている」と誤解している人もいるが、そうではない。
図書館の使命は「知る自由」を保証すること、そして図書館の様々な資料を見て考えることができるようにすること。
ある事象について「賛成」「反対」「中立」さまざまな資料をそろえる。だからこそ「知る権利」が保障されるのではないか。
あえて国民の大半が同じが方向を向いているような件でも、少数意見の資料をあえていれることでバランスを取る。
出版の全体量からすれば非常に少ない本を入れるので、意見の量と図書館のある資料の量は必ずしも一致しないが、それこそが少数意見も知ることができることの保障である。

中には、図書館の本を司書が選んでいるのだから、置かれている本の中身は「司書の考え」だと誤解もされる。しかし図書館の選書には上記のような「いろんな資料をバランスよくそろえる」ことは必至で考慮するが「自分の意見」が書かれた本をそろえるなんてことはしない。(実際に、それをやって大問題になった事例も図書館の世界にはあるのだ)
「こんな間違った中身の本を置くのはけしからん」と怒る人がいるが、それを考えるのは図書館ではなく本を見た一人ひとりの利用者である。
科学のトンデモ本を置いているときに、大学の専門の先生に「これは科学的にありえないです」と言われたこともあるが、それを判断するのは図書館ではなく、それを読んだ利用者なのだ。

うちのような小さな図書館でも年間数千冊の本を買う。
ということは、年間数千冊の本が開架から閉架書庫へと移っていく。さらに閉架書庫に余裕がなければ、その分年間数千冊の本が除籍されていく。これは物理的にどうしようもない。
とうぜん、図書館にはこの一連の作業に関してもルールを作っているだろう。古い本・利用の減った本・消耗してしまい読めなくなった本など順位をつけて「開架→閉架→除籍」という処理をしているはず。
「はだしのゲン」問題に関して言えば、別に閉架書庫に入れてもいいのだ。それを「図書館の本の異動ルールで決まった処理」なのであれば。
今回の問題は教育委員会の圧力で、本来の図書館ルールとは違う処理(閉架)がなされたから問題なのだ。
逆に「通常ルール」に則って閉架処理された資料を、同じように圧力をかけられて「開架」にさせられても同じことだ。
ある特定の資料を特別扱いするという行為が図書館的には完全アウトの行為なのだ。

「はだしのゲンをよく読んで判断してほしい」などというズレた議論があまりに多くて困っている。
だがあえて言えば「はだしのゲンは自由に読ませるべきだ」という論点の人は、逆の場合は必ず「反対の意見」を展開するだろう。自分の意見とは反対の資料が閉架されたら「よくやった!」と……
ここで「図書館の自由」の視点から言うと、そうではない。
自分の意見と一致しようが反しようが、同じことが言える人(反対の場合でも「知る自由が侵害された」と言える人)が本当のリベラルのような気がするのだが……いかがだろうか



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